御鮨街道(おすしかいどう)  (2006.9.22) 更新 2006.9.30
(岐阜湊町・加納宿)

 地図
・・ 江戸時代、長良川で捕れた新鮮な鮎を鮎鮨に加工し、江戸の将軍へ献上しており、その鮎鮨を運んだ岐阜街道のことを通称「御鮨街道」とか「鮎鮨街道」と呼んでいた。

鮎鮨は現代の鮨と違い、塩魚を飯とともに発酵させた
熟鮨(なれずし)で、元来は魚の保存方法だった。十世紀の延喜式にも美濃国の貢進品としてあげられ、京へもたびたび贈られていた。

元和元年
(1615年)の家康父子の岐阜来訪時に鮎鮨が食膳にあがり賞美された。これが幕末まで続く献上制度の始まりだった。元和5年(1619年)から岐阜町が尾張藩領になると、尾張藩が、毎年5月から8月まで年10回程度、江戸幕府に献上していた。

岐阜から江戸へ。清洲までは岐阜街道(尾張街道・名古屋街道・飛騨街道)、清洲からは美濃路、そして東海道の熱田宿を経て昼夜兼行で運ばれ、4〜5日(記録によると96時間)という短時間で江戸に着いたという。


 御鮨街道



鮎を捕った長良川がスタート(^^;)
鵜飼が行われるのは長良川にかかる長良橋より上流付近。いまでは鵜飼観覧船が並ぶ観覧船乗り場付近を眺めながら進む。鮎を捕る鵜匠さんたちは長良川右岸に住んでいるので、今回の私の動きが納められる鮎の動きと言って良いと思う。
長良川で鵜飼が行われている辺り 鵜飼観覧船乗り場


湊町
鵜飼観覧船乗り場前 しかし、ひょっとして鵜飼漁が終わって水揚げする場所は鵜匠の家がある長良ではなく、鵜飼い観覧船乗り場がある湊町付近であったかもしれない。

よって川灯台付近も押さえて置かねばならない(^^;)
鵜飼観覧船乗り場から長良橋を見る



御鮨所(おすしどころ)
水揚げされた鮎は長良川河畔から鮎鮨を作る御鮨所に運ばれて、お鮨にされた。
川湊であった湊町・玉井町・元浜町の総称・川原町には商家が立ち並び、いまも重厚な佇まいである。そんななかを鮎が運ばれていったのであろうか?
商家の並ぶ川原町 東材木町へ



御鮨所
鮎鮨は岐阜町東材木町(益屋町)にあった御鮨所で製造された。そこを預かる河崎喜衛門家は御鮨屋(のちに御鮨元と改称)と称した。寛文8年(1668年)に河崎善太郎家が相役に取り立てられて以後は幕末まで二家で勤めることになった。両家は尾張藩から扶持米を受けていたし、手伝いの者への給金や鮎・塩・米や運送資材なども藩から支給されるという厚遇だった。

鵜飼で捕獲された鮎は御鮨元と尾張藩役人が立ち会って選別され、御鮨所に運ばれて水洗いして塩漬けされる。それを一度塩出ししたうえでエラなどを切り、冷ました飯を鮎の腹に詰めて鮨桶に並べ、そのすき間に水洗いした飯を詰める。これをくり返し行い、最後に笹と編んだワラを置いて蓋をし、桶全体を竹と藤で堅く縛った。こうして漬け込まれた鮎鮨は道中5日間の予定で運ばれ、食膳に上がるときに食べ頃になるよう塩漬け時間や塩・米の両家は尾張藩季節に合わせて配慮している。
(街道の日本史・名古屋・岐阜と中山道より)


益屋町にあったといわれる御鮨所は林稲荷神社付近にあったらしい。境内には井之口と云われた頃に出ていた「美濃の神水」が再現されていた。鮎を水洗いするのにこの神水も寄与していたのかもしれない。
岐阜城を仰ぐ大仏殿の近くに御鮨所はあった 林稲荷神社



御鮨街道へ
御鮨所をおおむね夕刻に出た鮎鮨は昼夜兼行で運ばれる。加納・笠松と中継され、岡崎辺りで夜明けを迎えていたらしい。輸送に当たっては、各宿場での優先的な扱いを保証するために老中の奉書が発給された。鮎鮨の桶は錠付きの箱に入れ、その鍵、封をした老中証文本紙、その写、御鮨元の添え状、各宿場の到着時刻を記入する帳面の5点セットを納めた白木の箱とともに送られた。
(街道の日本史・名古屋・岐阜と中山道より)


御鮨所を出た鮎鮨は本町付近から靱屋町に入る。いよいよ御鮨街道である。米屋町辺りには岐阜町本陣跡がある。尾張藩主が岐阜を訪問した際に泊まった所である。本陣跡の建物も古いが隣にある石原美術や吉照庵もいい味を出している。
本町から靭屋町に入る 米屋町辺り
岐阜町本陣跡・石原美術 岐阜町本陣跡



御鮨街道の道標
井奈波神社前を過ぎ、常磐町の「さし源本店」前に岐阜市教育委員会が立てた御鮨街道の道標がある。角っことはいえ何でわざわざ結婚式人形の横に立てるのかなあ?折角立てても人形に隠れてゼンゼン見えんじゃん(--;) だから地元民も存在を知らないんだよ。まったくこういう税金のムダ使いは止してほしいなあ。それに鮎鮨を運ぶ方向とは反対側に立てたのもセンスのない証拠だよ。教育委員会のくせにチッタア頭使えよな。

また鶯谷トンネルに行く小熊町の交差点にも濃紺の道標が立ててある。こちらは街中の道標としてもセンス良くて格好いいぞ!
さし源本店前にある道標
さし源本店前にある道標 小熊町にある道標


街中の屈曲(--;)
元町まで来ると道が分岐する。分岐を左へ行くのが御鮨街道だ。大正年間まで真っ直ぐ行く道はなかったらしい。そのまま東金宝町・長住町を越え、名鉄鵜沼線の踏切を渡る。渡ったらすぐ右折し、パーキング横でまた左折。枡形のようにカクカクと進んでいるわけだ。理由は防衛上の問題だろうか?
元町付近で分岐を左へ 名鉄鵜沼線の踏切を渡る
踏切を渡ってすぐを右折 パーキング横を左折、幸ノ町へ


また屈曲(--;)
幸ノ町を南下、JRの高架の手前、高砂町まで来ると、またカクカクがある。正面にコメダコーヒーのあるT字路を右折、その先の信号を左折して高架下を潜る。
高砂町コメダ前を右折 信号を左折してJRを潜る


中山道へ

JRを越えて直進すると、道が狭くなり、名鉄名古屋本線の踏切にかかる。その先に中山道との合流点がある。合流点は加納南広江町。角は「広江の漢方」漢方薬屋さんである。その店頭に石の標柱が立っている。はじめ「左中山道 右ぎふ道」だったのが明治になって「左西京道 右東京道」が加わったそうである。ちなみにここは四つ辻になっているが、中山道は左の写真でいうと直進になる。すなわちここは中山道と岐阜街道の合流点であると同時に中山道の屈曲点にもなっているのだ。

中山道と合流して東に行った所に岐阜問屋場跡がある。岐阜町から運搬された鮎鮨がここで引き継がれ、次の笠松の問屋へと運ばれるわけだ。問屋のあった場所には今では何の変哲もない民家が建っている。戦災で焼けたのかどうかわからないが、場所が特定できるだけでも良しとしたものである。
名鉄名古屋本線の踏切を渡り、中山道に合流 合流して左へ(中山道は直進と左)
岐阜問屋場跡


中山道の屈曲
岐阜問屋場跡から東へ進む。加納大手町を横切るところに中山道加納宿の道標がある。大通りを横切ったところにも道標がある。この辺りが中山道加納宿中もっとも曲がりくねっている辺りだ。
 
加納柳町 角っこにある道標
善徳寺手前


加納宿東番所跡
善徳寺前を左折、そしてすぐに右折して安良町に入る。ここに加納宿東番所があったという。夜は木戸が閉められていたというから鮎鮨の一行だけは通してくれたのだろう。
善徳寺 加納安良町(加納宿東番所跡)
加納宿東番所跡(安良町)



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