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(西枇杷島・名古屋) |
(2006.10.15) |
更新 2006.12.9 |
地図 |
新川を渡り、西枇杷島へ
防災記念公園と三菱東京UFJ銀行のある新川橋西詰から新川を渡る。渡ったところが清須市西枇杷島地区である。ここは旧美濃路で徳川家康の命により青物市問屋を開いた地で、後に小田井の市または枇杷島市場ともいわれるほど栄え、江戸の千住、大阪の天満と並ぶ三大市場に数えられたそうだ。この問屋記念館はそんな繁栄をいまに残す旧山田家住居である。
繁栄した町屋街には当時から山車があったらしく、旧美濃路散策コースの案内板にも山車の保管場所が記してあった。
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新川を渡る |
問屋記念館 |
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旧山田家住居 |
西枇杷島地区 |
庄内川を渡る
そんな町中を通り、JR新幹線・東海道本線のガードをくぐると、庄内川を渡る。庄内川には枇杷島橋がかかっている。
そのたもとに今も美濃路の道標が残っている。内容は・・・達筆すぎて読めない(~_~) このあたりも脇街道が発達していたので「つしまきよすみち」とか「いわくら道」「なごや」などと書いてあるようだ。また案内塔には「西枇杷島 山車のまち」と記してあり、当時のにぎわいがかいま見られる。
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JRのガード |
美濃路の道標 |
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案内塔 |
美濃路の道標 |
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庄内川と枇杷島橋 |
枇杷島のおこり
庄内川を渡ったところに昔の枇杷島橋をかたどったモニュメントがあった。当時は中央の小島を挟んで大小2つの総桧造りの橋がかけられていたという。モニュメントの脇には看板がたてられている。「信長や秀吉が遊んだ庄内川」として、ここ枇杷島河原付近では茶筅髷に腰にいろいろなものをぶらさげた吉法師時代の信長が遊んだと書かれている。
モニュメントをすぎると、すぐ名鉄のガード下をくぐり、清音寺前に出る。平清盛の時代、都から流された貴族と土地の娘との悲恋物語から、ここ枇杷島の名がついたという。
江川一里塚跡
そのまま進み、八坂で国道22号線を横断する。国道を横断してさらに進んだところに江川一里塚跡がある。美濃路にある一里塚としては東海道の熱田宿から2番目に当たるそうだ。このあたりから道は南へ折れる。さらに国道22号線を突っ切り(横断歩道などはない)、幅下公園で左折する。幅下公園の北西角には延命地蔵尊がまつられていた。
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国道22号線を横断(八坂) |
江川一里塚跡 |
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三差路を右折 |
幅下公園で左折する |
四間道(しけみち)
幅下公園からそのまま進み、サンゲツ本社前を通り、アネックス富田のビルで右折し堀川端を南下する。このあたりが名古屋城ともっとも近づく所である。
景雲橋の通りをすぎると蔵が建ち並ぶ※四間道付近である。名古屋でもっとも古い商店街・円頓寺商店街に隣接するだけあって重厚な商家や蔵が建ち並ぶ。蔵や商家の一部はお店に改装されたりして、おしゃれな街になりつつあった。ちょうど長良川の川原町のような感じであった。そんな地域から伝馬橋で堀川を渡り、いよいよ名古屋の中心街へと進む。
※四間道(しけみち)
元禄13年(1700年)、名古屋でもっとも古い商店街の円頓寺付近から出火し、1600余軒が燃えてしまったことから、藩が防火対策として堀川端の問屋筋の裏を拡張し、道幅を4間にしたところから四間道と呼ばれるようになったという。
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