美濃路(みのじ)  (2006.10.15〜12.17) 更新 2007.1.27
(宮・名古屋・枇杷島・清洲)

 地図1
<FONT size="-1">大垣市(大垣宿)にある、創業1755年(宝暦5年)のつちや本店 ・・
美濃路は東海道の熱田(宮の宿)から別れ、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の7宿を経て、垂井で中山道と合流する脇街道である。

平安時代、官道・東海道と東山道を尾張〜美濃で結ぶ道が美濃路の原型になったと考えられる。また鎌倉時代には京と鎌倉を結ぶ鎌倉街道のひとつとして最も重要な街道になった。戦国時代には信長の桶狭間、秀吉の小田原征伐、家康の関ヶ原それぞれの戦勝凱旋路になり、吉例街道と呼ばれた。

その旅程は14里24丁15間(約58km)。江戸時代には東海道で京へ上るより、美濃路まわりで上る方が2里遠くなるが、「七里の渡し」よりも陸路が安全であるため旅人も多かったという。


熱田から稲沢までは御鮨街道と同じ道程であり、逆向きに省略して紹介する。詳しくは
御鮨街道5を参照されたい。

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熱田(宮の宿)
熱田(宮の宿)で東海道から美濃路が分岐してスタートする。国道19号線・伏見通を北進する。熱田神宮前を通って金山へ。
宮の宿・赤本陣跡 熱田神宮・西門



金山・佐屋路
金山新橋で佐屋路(県道115号線)と分岐する。七里の渡しを嫌う旅人は陸路の佐屋路をとって船旅を少なくしたのである。分岐の交差点(南西角)に道標が残っている。東側に右なごや・木曽川、南側に左さや・つしまと彫られている。交差点をすぎると金山総合駅を陸橋で渡る。
金山新橋の交差点 金山総合駅
道標



名古屋中心部を通る
大須観音の手前で国道19号・伏見通から離れ、本町通に入る。大須観音を左(西)に見ながら北上する。伝馬町通本町の交差点を左折し、伝馬町通に入る。名古屋のテレビ塔が東に見える。この辺りは名古屋のオフィス街の中心地で、日銀名古屋支店や銀行関係が多い。

その伝馬町通を西進すると、伏見通にぶちあたる。伏見通には中央分離帯がつくられていて横断はできないので桜通まで迂回せねばならない。伏見通の東側には日本銀行(日銀)と伊予銀行の名古屋支店があるし、西側には八十二銀行があるので、それを目印に渡ると良い。
伝馬町通本町の交差点を左折(西側から撮影) 日本銀行(日銀)と伊予銀行の名古屋支店



伝馬橋を渡る
伏見通を越えると堀川にかかる。堀川はご存じのとおり徳川家康が名古屋城築城を機に資材運搬用に開削した運河である。美濃路は堀川を伝馬橋で越える。伝馬橋から左右を見ると何本か橋がかかっていて、ここ伝馬橋は伝馬町通だし、北隣の桜橋は桜通にちなんだネーミングで楽しい。
伝馬橋で堀川を渡る



四間道(しけみち)
伝馬橋を渡ると、蔵が建ち並ぶ四間道付近である。名古屋でもっとも古い商店街・円頓寺商店街に隣接するだけに重厚な商家や蔵が建ち並ぶ。蔵や商家の一部はお店に改装されたりして、おしゃれな街になりつつあった。ちょうど長良川の川原町のような感じである。アネックス富田の前で左折し、サンゲツ本社前から幅下公園へ進む。

※四間道(しけみち)
元禄13年(1700年)、名古屋でもっとも古い商店街の円頓寺付近から出火し、1600余軒が燃えてしまったことから、藩が防火対策として堀川端の問屋筋の裏を拡張し、道幅を4間にしたところから四間道と呼ばれるようになったという。
四間道付近(北側から撮影) アネックス富田で左折(西側から撮影)


江川一里塚跡
北西角に延命地蔵尊がまつられている幅下公園から北上する。横断歩道がない所で国道22号線を突っ切り、突き当たりを左折し、西へ進んだところに江川一里塚跡がある。美濃路にある一里塚としては東海道の熱田宿から2番目に当たるそうだ。八坂でまた国道22号線を横断する。
幅下公園から北上する(北側から撮影) 三差路を西へ(西側から撮影)
江川一里塚跡(西側から撮影) 国道22号線を横断(八坂・西側から撮影)



枇杷島のおこり
国道22号線を横断して、少し行くと清音寺前に着く。平清盛の時代、都から流された貴族と土地の娘との悲恋物語から、ここ枇杷島の名がついたという。

名鉄のガード下をくぐり、庄内川の堤防に行き着いた所に昔の枇杷島橋をかたどったモニュメントがある。当時は中央の小島を挟んで大小2つの総桧造りの橋がかけられていた。
モニュメントの脇には看板がたてられていて「信長や秀吉が遊んだ庄内川」として、ここ枇杷島河原付近では茶筅髷に腰にいろいろなものをぶらさげた吉法師時代の信長が遊んだと書かれている。
枇杷島ゆかりの清音寺
名鉄のガード(北側から撮影) モニュメント



庄内川を渡って西枇杷島へ
そんな枇杷島橋で庄内川を渡る。橋のたもとに美濃路の道標が残っている。内容は・・・達筆すぎて読めない(~_~) このあたりも脇街道が発達していたので「つしまきよすみち」とか「いわくら道」「なごや」などと書いてあるようだ。また案内塔には「西枇杷島 山車のまち」と記してあり、当時のにぎわいがかいま見られる。JR新幹線・東海道本線のガードをくぐって西枇杷島の街に入る。
庄内川と枇杷島橋(北側から撮影) 美濃路の道標
案内塔 美濃路の道標
JRのガード(西側から撮影)



清須市西枇杷島は徳川家康の命により青物市問屋を開いた地で、後に小田井の市または枇杷島市場ともいわれるほど栄え、江戸の千住、大阪の天満と並ぶ三大市場に数えられたそうだ。ここ問屋記念館はそんな繁栄をいまに残す旧山田家住居である。繁栄した街には当時から山車があったらしく、旧美濃路散策コースの案内板にも山車の保管場所が記してあった。
問屋記念館と旧山田家住居 西枇杷島



新川を渡る
枇杷島の街を過ぎ、新川を渡る。新川は新川橋の看板にあるように、庄内川の放水路として開削されたものである。しかし、もともと低湿地であったため、たびたび洪水が起こった。記憶に新しいところでは2000年9月11・12日の集中豪雨により堤防が決壊し、この辺り一帯は水浸しになった。そんなことからここ新川橋西詰は防災記念公園として整備されている。また新川橋西詰からは津島街道が分岐しており、欄干形の道標も置かれ、美濃路の公園としても整備されている。
新川を渡る(北側から撮影) 新川橋西詰の公園と三菱東京UFJ銀行尾張新川支店
欄干形の道標 新川開削本陣跡の案内板



五条川を渡る
須ヶ口・新川と通り過ぎた美濃路は清須市丸の内の三輪医院から鍵形に曲がり、サークルKサンクス前で県道127号線と合流する。名鉄名古屋本線のガードをくぐってから県道と分岐し、左へ行く。

長者橋下の信号を過ぎてから堤防へ斜めに上がり、ふたたび県道127号線の五条橋で五条川を渡る。
鍵形に曲がる旧道(西側から撮影) 豪壮な邸宅(長者橋東)
堤防上へ 五条川を渡る(五条橋・西側から撮影)


清洲宿
五条橋を渡ると道は三差路に出会う。清涼寺と「札の辻」である。ここは美濃路清洲宿の中心地で鍵形の曲がり角には高札が立ち、「札の辻」と呼ばれた。津島への分岐を示す指差し道標も最近まで残っていたという。

「札の辻」を右折すると、清洲宿の本陣跡がある。どこも本陣ともなると門構えから違う。特にここ清洲は美濃路のなかでも最も豪壮な建物であったという。関ヶ原の戦い以前、尾張の中心は清洲であったわけだから当然といえば当然なのだが・・・

JR東海道線のガードをくぐると、清洲古城趾や清洲城がある。
清涼寺と「札の辻」から右折してくる(北側から撮影) 清洲宿本陣跡
案内板より JR東海道本線のガードをくぐる(北側から撮影)
清洲城 清洲古城趾



北市場美濃路公園
県道127号線をそのまま進む。東名阪自動車道をくぐり、県道190号線の手前の変則三差路を左折、その先の三差路を右へ行くと北市場美濃路公園前に出る。公園の入り口には案内看板が立ち、トイレなどの休憩設備がある。ふつうの公園には違いないのだが街道を辿る者には良い施設と思われる。
東名阪をくぐる(北側から撮影) 北市場美濃路公園
案内看板



長光寺
北市場美濃路公園前からさらに北上すると、長光寺の前に来る。長光寺の門前には「左京都道 右ぎふ」と彫られた道標がある。この道標は美濃路と岐阜街道との分岐点である四ッ家追分にあったものが移されてきたものだそうだ。
長光寺
四ッ家追分にあった道しるべが移されている



四ッ家追分(岐阜街道との分岐)
長光寺から少し進むと、美濃路は直角に曲がる。曲がった先に美濃路と岐阜街道との分岐点である四ッ家追分がある。追分には石碑が立てられていて下記のように彫ってある。
「下津、一宮、黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道。
後の岐阜街道と稲葉・萩原・起を過ぎて垂井へ向かう美濃街道との分岐点である」

ここには茶屋が数軒あり、うどんが名物であったという。岐阜街道と分かれた美濃路はここより西北方向へ進む。
直角に曲がる(西北から南東方向を撮影)
↑(西方・美濃路へ) 四ッ家の追分 (北方・岐阜街道へ)↑
四ッ家追分の石碑



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