峠よもやま話

 4.峠の表裏理論      更新 2003.9.21   


「峠の表裏」理論とは柳田国男がその著書「秋風帖」で言及している、かなり有名な理論である。それは意訳すると・・・

峠に来て立ち止まると、必ず今まで吹かなかった風が吹く。気分ががらりと変わり、日の色や、陰陽が違うだけでなく、山路の景色が変わってくる。見下ろす山里は左右よく似ていても、一方の平地が他の一方より高いとか、一方の山側は急傾斜で、他の一方は緩傾斜であることが眼につく。

麓から頂上までの路はいろいろ曲折していても結局これを甲、乙の二種類に分類することができる。甲は水の音が近い山路、乙は水の音が遠い山路である。前者は頂上近くになって急に険しくなり、後者は麓に近い部分が険しい道である。また甲は低く道をつけて川筋を離れまいとするために何度か谷水を渡らねばならない。また乙はこの煩雑さがないかわりに千仭と形容すべき、険しい桟道や岨道を行かねばならない。

峠の表裏理論の地図


初めて山越えを企てる者は、目前に越えるべき山の鞍部が見える高さに達するまでは、道に迷わないように川筋に沿ったルートをとるが、峠に達した後は麓の平地に目標を定めて、それを見ながら下りる方が便利である。山の皺は下に行くほど多く、高い地点での屈曲は下に行くと数倍の屈曲路になるため、尾根伝いに降りていく・・・・・

つまり甲種の「頂上近くで急に険しくなる道」とは、沢筋の緩やかな路を上流に詰めていき、山肌に取り付き、ここから崖沿いの道や、九十九折りなどで急激に峠まで高度を上げている路のことを指す。乙種の「麓に近い部分が険しい道」とは、峠から緩やかな尾根沿いの路を通り、目的の集落付近で尾根筋を離れて九十九折り等で一気に急降下している路のことを指す。

沢筋の路(深坂越


峠(坂)の成立過程において、その登り口として開かれた甲を「峠の表」、下り路として開かれた乙を「峠の裏」と柳田国男は呼んでいる。

おおむね「峠の表」と呼ばれる側にある集落は、「峠の裏」と呼ばれる側にある集落より経済的に豊かで、文化も進んでいた。人、モノ、カネの流れは通常「表」から「裏」へと流れることが多く、峠路の道筋を検証することによって峠路の成り立ちを推測することができる。

ちなみに柳田国男がこの「峠の表裏理論」を発見したのは富山県の小瀬峠だという。
明治42(1909)年6月に、「峠の中腹以上は雪多し…むやみに高い峠なり。…されど峠に裏と表あることを発見して喜びに耐えず。表というのは其方から通行を求めた……」と、「北国紀行」に書いているそうだ。
尾根沿いの路(折橋峠)


峠の表裏理論を各々の峠にあてはめて考えてみるのも面白いもので、私も峠越えをしながら、しばしば思索にふけってしまうのだが、山梨・静岡県境にある安倍峠を例にとると、山梨県側が甲種の、静岡県側が乙種の裏となるようだ。

ここは安部川の梅ヶ島温泉付近に今川氏が開坑した安部金山坑があり、後に武田氏によって大規模な開発が行われ、大勢の金山衆が甲州から入ったため、甲州側が表と判断されるようだ(永谷誠宏著「峠のエンサイクロペディア」)
安倍峠

ホームページ | よもやま話へ戻る前へ次へ