中山峠 355m (2009.5.31) 地図
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山形県最上町堺田と宮城県大崎市鳴子温泉西原の間にある国道47号線の峠である。 松尾芭蕉の奥の細道関連の峠である。元禄8年(1689年)5月15日(太陽暦7月1日)門弟の曽良を伴った芭蕉は仙台領を抜け、その日の夕暮れに中山峠がある堺田村にたどり着いた。 芭蕉師弟は梅雨時の風雨のため、その晩から2泊3日にわたって堺田村にある通称「封人の家」に逗留している。 |
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国道47号線、富沢付近 |
尾花沢には鈴木清風という江戸で芭蕉と交流があった人物がいた。清風は紅花(べにばな)などを江戸や京都に売る店の若旦那で、芭蕉は再会を楽しみにしていたという。じっさい尾花沢には10泊もしたほどで、よほど会いたかったのであろう。そんな芭蕉の気持ちを詠んだ句が
『蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する 枕元』
である。
楽しみにしていた尾花沢を前に足止めを食らって頭に来ている気分を宿の環境にぶつけているのである。そして、そんな焦る気持ちが尾花沢への定番・猿羽根峠越えではなく山伐刀峠越えに向かわせたようである。一刻も早く尾花沢に着きたいという焦りが近道を選択させのだ。じっさい尾花沢のあと酒田へ行くには猿羽根峠越えしているからね。
さて、国道は陸羽東線と並んで峠に向けて登っていく。といっても山形県側は高原のようなものである。峠にこの封人の家がある。「封人の家」とは国境を守る役人の家という意味だが、奥の細道に由来した名前だという。
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陸羽東線 | 堺田 |
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地図 | 封人の家 |
「封人の家」の開館時間にはまだ早かったので、峠とか分水嶺公園とか探索した後、「封人の家」に入った。中は観覧料を払って見学も撮影も自由である。朝いちで入ったので、この囲炉裏の火も点けさせてもらえた。杉の乾燥させた葉を敷いた上に木を組んで火を点けるのである。火入れだけやらせてもらった(^^;) この家には煙抜きがないそうで、囲炉裏の煙が室内に充満している。でも虫はこの煙を嫌って家にほとんど入ってこないのだそうだ。
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封人の家 | 管理人さん |
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峠おやじ | 『蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する 枕元』の句碑 |
封人の家の内部を動画にしてある(^^;)
「封人の家」の前から峠へ。ほんの目と鼻の先である。峠の前には小さな神社があった。上の地図にあった堺田八幡宮らしい。国道脇には旧道らしきものがあった。民家の庭先をかすめて下っている。草付きの旧道である。
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峠と | 堺田八幡宮 |
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峠方向と旧道 | 民家の庭先をかすめて下っている |
そこを下っていくと階段がらみの道になり、直角に曲がって国道を横切って下る。
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階段がらみの旧道 | 直角に曲がって |
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国道を横切って | 下る |
下ったところにまた階段があって川を渡ったあとに山中へ入っていく。山中へ入るところに看板が設置してあって、出羽街道中山越となっていた。
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下ったところにまた階段があって川を渡る | 横から見ると、こんな具合 |
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山中へ入るところに看板 | 出羽街道中山越 |
少し旧道を進んでみた。整備されていて、それなりに走りやすい道ではあった。しかし、横の木を見てゾッとした。巨大な山蛭(やまひる)が幹を這っていた。ここにじっとしていたり、この先へと進めば樹上から落下してくることは確実であろう。ということで、早々に旧道からは撤退することにした(--;)
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旧道 | 巨大な山ヒル |
旧道が国道を横断しているところへ戻って峠付近を撮影。
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峠付近 | 堺田方面 |
そして「封人の家」の前から道の反対側へと下っていくと、分水嶺があった。目の前の水が日本海側と太陽側に分水していくように作られていた。こうした施設は美濃の蛭ヶ野峠の分水嶺公園、飛騨の苅安峠の分水嶺、兵庫県の水分れ公園などで見たことがある。
分水嶺は陸羽東線の堺田駅のそばにあった。そこにあった看板には藤沢周平の小説の一節が載せてあった。
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分水嶺の看板 | 分水界 |
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堺田駅 | |
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藤沢周平の小説の一節 |
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