刈谷原峠 920m (2007.10.13) 地図

長野県松本市刈谷原町−松本市岡田伊深
長野県松本市刈谷原町と岡田伊深との間にある北国西脇往還・善光寺道の峠である。

国道143号線の脇にある中部北陸自然歩道の看板から旧道に入る。この看板に東山道の記述もあった。

古代東山道は伊那谷から杖突峠・諏訪を経由、大門峠というルートであったのに対し、延喜式以降の東山道は伊那谷から善知鳥峠を越えて松本平、松本からはここ刈谷原峠ではなく、隣の稲倉峠を越え、保福寺峠から上田へという道筋であった。

それに対し、刈谷原峠を通った北国西脇往還・善光寺道はここから立峠中ノ峠猿ヶ馬場峠という経路で善光寺へ向かっていた。
中部北陸自然歩道の看板から旧道に入る(14:17)



刈谷原宿は小さな集落で古い建物はあまり残っていない。それでも写真のように白壁と「北国西街道」の名を掲げた民家もあって、それなりに街道情緒は楽しめる。道を登った町はずれに庚申搭と金剛像と道祖神がある。草付きの旧道が風情を醸し出していた。

さらに登ると峠の案内板があった。古くは仇坂(あださか)と呼ばれたことや、武田信玄の時代に刈谷原城があったこと(大河ドラマで謙信がここの城攻めをやっていたね)などが記され、江戸時代になってから城下町から宿場町に転化したことなどが書かれている。

刈谷原宿内「北国西街道」の名を掲げた民家(14:22) 庚申搭と旧道(14:25)
金剛像と道祖神 刈谷原峠の案内板(14:30)



旧道をそのまま登っていくと、水道タンクというか堰堤に阻まれるため、林道から迂回して登る。この林道もすぐに草付き道になってしまい、幅が広いだけの道となった。

林道から迂回して登る(14:39) 林道も草付き道になる(14:41)



登っていくと一里塚跡が出てきた。またお地蔵さんや馬頭さんも1体や2体ではない。やはり昔の街道だけのことはある。

一里塚跡(14:46) お地蔵さん(14:53)
お地蔵さんや馬頭さんも1体や2体ではない(14:56)



勾配はそんなに急ではないものの足元が不安定なので押し歩きも多かった。そんなふうに登っていって峠に到着した。ここの看板にも「東山道」について言及してあるが、越後へ行く支道としての役割が東山道とその支道から善光寺道へと引き継がれてきたことは事実であっても、五畿七道のひとつ東山道と脇往還である善光寺道とではその役割も名前も違っているし、越える峠などのルートにもかなり違いがある。それに「古代東山道」と書かれた古代とはどこまでを指しているのか?など、はなはだ不明確な記述であると言わざるを得ない。

峠は広場になっていて茶屋が3軒あったらしい(傳田重義著「善光寺道を歩く」より)。そう思って見るとなるほどナカナカ広い場所である。

峠に到着(15:11) 峠の標識(15:12)
親切なようで紛らわしい看板 茶屋跡が残る峠



松本側に下りていく。道は同じようなダブルトラックである。途中に馬頭観世音の文字碑があった。さらにその下にはミニマムサイズの石仏が10数個並んでいた。どれも馬頭観音さんのようだが、このサイズと数の多さは珍しい。道は草付き道だったり、単なるダートだったりだが傾斜はさほど急ではない。それが急になったと思ったらヘアピンカーブが現れた。

馬頭観世音の文字碑(15:22) ミニマムサイズの馬頭さんが10数個(15:22)
木々が切れてゴルフ場が見えた(15:23) 傾斜が急になったヘアピンカーブ(15:24)



下へ行くほど道は雨水に洗われて河原のようになっていった。そして、道が舗装になったと思ったら馬飼峠との分岐点に着いた。視界の先には麓の松本市岡田(宿)が広がっていた。この分岐に自然歩道や峠名の標識が立てられていた。

雨水に洗われた道(15:27) 馬飼峠との分岐点(15:33)


馬飼峠へ