長良西の高低差 2

   (2021.6.17)  更新 2021.6.17   
長良西の高低差1では長良川から若竹・織田・養老・松風町の高低差を見てきた。
次に長良西全域の高低差を見てみよう。


松風町から校下の北端・下岩崎までの断面図である。
特筆すべきなのは松風町からさらに標高を下げていく長良橋通りが、長良北町・平和通付近でピョコッと標高を上げることだ。断面図にも書いたがここは古の官道・東山道のルート跡である。加納の中山道でも良くわかるが、街道筋は水害の被害が少ない微高地を通してある。それが断面図に現れているのは面白い。たぶん長良川の自然堤防だったのだろう。

1976年の安八水害のとき、新入行員だった私は出水の様子を見に、夜中自転車を走らせた。
天神川まで来ると、道を東から西へ水が越流していた。今はかなり掘り下げてある天神川だが、当時川の深さは今の半分くらいだったと思う。

天神川を渡る地点での東西の高低差を見てみるため、当時はなかった岐阜環状線をトレースしてみた。
予想通り西へ向かって順次下がっていくが、長良中学校のラインまで来ると、ほとんどど同じ高さで推移し、青山(せいざん)中学校付近で鳥羽川との合流点を迎える。

話を安八水害の深夜に戻そう。
天神川よりさらに北へ向かった。下岩崎手前の信号まで来ると、奥(北)から水がドンドン流れてきて、交差点から西の八代地内へ流れ込んでいた。水流の深さは10cmくらいだったろうか。その先にある高富地内で鳥羽川が氾濫し、道を伝って流れて来ていたのだ。それを見て危険を感じ、踵をかえして家に戻った。

その下岩崎手前の信号交差点から水が流れていった方向を眺めてみる。八代公園を経て若福町と鳥羽川までである。断面図でわかるように八代公園東側が長良橋通りより高くなっている。そのため八代公園と方県津(かたがたつ)神社は水に浸からなかったそうだ。
 


その方県津神社の高さがわかるように鳥羽川の福天橋(ふくてんばし)までの断面図を作ってみた。神社の拝殿、本殿は小高い丘の上にあり、古墳の上に造られているそうだ。
 


最後に鳥羽川から太平洋戦争前の長良川付近まで断面図を作ってみた。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で放送された長良川の戦いを例に取ってみる。戦いは斎藤道三と義龍の親子喧嘩である。山県市大桑(おおが)の大桑城を発した道三軍は金華山と長良川までを視野に収める鶴山にいったん布陣。そこから旧伊自良街道を通り、現在メモリアルセンターのマラソンゲート付近にあった中の渡しまで進み、義龍軍と激突した。

行軍図としたコースは道三塚にある地図とは異なっているが、長良西の高低差が出るように現在の道路上をトレースしてみた。
戦いの前哨戦らしい「土居(つちい)の戦い」は下土居付近の天神川辺りと思われる。この断面図でも平和通付近は微高地であることがわかり、かつての東山道(とうさんどう)跡がハッキリとわかる。

岐阜市は長良川が濃尾平野に出てきたところにできた扇状地上に立地している。そのため基本的に東高西低である。また海が南方、山が北東方向なので北高南低でもある。そんなことを念頭に置いて水の流れに想いをはせれば、水害への備えもまた違った視点で見られるというものである。


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