古代の道東山道 ( NIFTY FCYCLO 掲載分補筆)  2007.12.24更新


★東山道(トウサンドウ)とは

古代日本の官道の一つである東山道は大化改新(645年)で中央集権確立のため国衙(コクガ・国府)を結ぶ駅馬の基本構想が詔され、養老7年(723年)頃まで長い年月をかけて造られたものです。その行程は近江から美濃・信濃を通り上野・下野を経て陸奥・出羽に至るものでした。

★目次

1.濃尾平野の東山道
2.探検準備編
3.濃尾平野実走編

★濃尾平野の東山道

「東山道の実証的研究 黒坂周平著 吉川弘文館出版」によると
「センドウ」の地名が残る地点を東山道が通っているようです。
濃尾平野では私が住んでいる岐阜市北部から北方町・真正町を経て不破の関までの間に
この「センドウ」の名が点在し大まかな道筋が特定できるようです。
しかし上の地図を見て気づくのは濃尾平野の北縁部を通っているということです。
大和朝廷発足の頃の官道といえば、朝廷に従わない蝦夷征伐のための軍道的色彩が強く、
真っ直ぐかつ広く作られていました。その伝でいくと中山道のように不破から各務原まで
ストレートに作っても良さそうなものです。
それがこのように北へ上がっているのは木曽・長良川という両大河の影響でしょう。
木曽川はいまの境川の位置を流れていましたし、長良川は伊自良川にそそぎ込んでいました。
そこで官道もそれら河川の氾濫域を外れた微高地を通すこととなったのでしょう。
その辺りの事情は今の地図を見てもわかりません。下の長良古川・古々川の締切り地図を見ると
当時の状況がわかるというものです。

★探検準備編

さてそれでは実際に古の東山道を辿ってみましょう。
しかし資料の準備が大変です。
「東山道の実証的研究」に書いてある字(アザ)地名センドウ・セントウ・セント・サンドウ・サントウ
自体2.5万分の1など普通の地図には載っていません。
仕方ないので私は便法として住宅地図で調べてみました。
岐阜市は載っていましたが他の町は字名すら載っていません。
よって黒坂本の記述と現在の地名を照らし合わせておおよそのルートを想定しました。

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★濃尾平野実走編

いよいよ探検の開始です。
当日3月22日は早春特有の北西の季節風が強く、
アゲインストに備え色々なポジションがとれるランドナーバー装備のアルプスクィックエースを起用しました。
自宅出発は11時。まずは岐阜市下土居(シモツチイ)地内の「仙道」へ向かいました。
パラパラと建てかかった住宅の前に見える田圃が該当地です。
西には「国盗り物語」の舞台になった鷺山が見えます。
次は同じく岐阜市正木(マサキ)地内の「仙道」
こちらは車がブンブン通る環状線脇に位置し北には鳥羽川越しに岐阜大学の建物。
東南には鷺山越しに金華山岐阜城が遠望されるロケーションです。
木田(キダ)方面に向かい伊自良川(イジラ)を渡ってからは少しの間河川敷を進みます。
ここは板屋川との合流点までの中洲の中なんですが畑になっていて道は地道、
下流に名鉄揖斐線尻毛橋(シッケ)が見えるという鉄向きのロケーションでもあります。
木田の部落を過ぎてやっと直線道路に出る。と、黒坂本に出ている金剛寺です。
「木田で最初にできた寺です」と立て札があります。
更に西進、又丸(マタマル)地内に石碑「右谷汲道、左ぎふ 加納道」が建っています。
いよいよ岐阜市最後の「先道」のある西改田(ニシカイデン)地区
驚いたことに道ばたに「スナックせんどう」の看板があります。
更に電信柱には「西改田先道」の文字が。
目の前の賃貸住宅は「サンビューラ仙道」うーん、もうしばしの間はカメラ撮りまくり状態になったのでした。

 
 
 

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驚喜乱舞の西改田から北方町へ入って、ほんの200 mも行ったでしょうか?
芝原東公園の真ん前にそれは立っていました。岐阜市ではお目にかかれなかった東山道の立て看板です。
「この東西に走る道は」に始まって東山道の由来、岐阜県内の駅から秋田までのコース図等詳細に記述があり、
そりぁもう感謝感激、目はうるうる、来てよかったなあと思う瞬間でした。
次にしばらくの間、糸貫町との境界線を走ります。
仏生寺(ブッショウジ)の貴船神社あたりは怪しいなあと勝手に考えながら四つ辻を越えると
そこには狂喜乱舞 PART 3が控えておりました。また東山道の立て看板です。
糸貫町仏生寺の高砂町の小字名に東仙道、仙道上、仙道南の地名があるのは東山道のあったことを物語っている」
とあります。やったね(^^)v


  北方町芝原東公園の立て看板       ★目次へ戻る
                         糸貫町仏生寺の立て看板
ここから先は問題の真正町。
黒坂本には濃ゆい地域と出てるのに住宅地図では全くのおあいそなし。
なすすべもなく突入すると、おおっと樽見鉄道は北方真桑駅(マクワ)に客車が・・・
ブルトレ風のもの、廃でっかーパノラマ風のもの(樽見鉄道の超目玉商品うすずみ1号だそうな)
等々が置いてありました。
犬山モンキーパークの絵でペイントされた電車が走る名鉄揖斐線を渡り、
しばらくは黒坂本にある古地図をトレースしてるのか迷子になってるのか判らない状態で
住吉地区・犀川を通りました。
そして次なる政田(マサダ)地区にお約束のPART4はありました。またまた立て看板です。
「東山道は仙道、先道、千道ともいわれ、
此の地の仙道上、仙道下の地名がありし日の東山道の実在を物語っています」とあります。


 真正町政田の立て看板  ★目次へ戻る
こうやって見てくると立て看板の設置は概ね平成元年から3年といったところで
各町の教育委員会の手になっています。黒坂本の発行が平成4年だから
黒坂先生の調査によってこれらの地域がスポットを浴びるようになったのですね。
真正町は清水地区の難解な道を越え藪川(根尾川下流)まで来たものの渡河地点に橋はなく
少し上流の海老橋を渡って大野駅があったという大野町郡家(グケ)地区に入りました。
予想通り何にもありません。
次なる神戸町に向かうべく本庄を通って平野橋で揖斐川を渡りました。
神戸町内の東山道については「神戸町史 上巻」に載った「濃州徇行記(ジュンコウキ)」からの記述
「伊尾川傍、丈六道(ジョウロクドウ)の境より通じ古の中山道の趾とて村徑(ソンケイ)あり、
是は本郷、横町、辻の筋へ通ぜり、先は赤坂へ出づ」と住宅地図を参考にルートの想定をしました。
揖斐川を渡ったところが丈六道でこれは簡単でしたが次の本郷がわかりません。
仕方ないので横町へ向かい目抜き通りである本町へ出ました。
神戸町は町の祭礼の行われる日吉社の門前町として発達したようで、ぎぼし付き欄干の橋やレトロな時計台、
煉瓦様タイル張りの道路などとてもお洒落な街にしてあります。
4月14日の祭礼には山車が出るとか春日の局ゆかりのお寺があるとか侮れん町やなあと思いました。
住宅地図で見つけた濃ゆい地名、川西地区の「大道西、道鬼、戦場」については捜せどもまるで分かりませんでした。
仕方なく最終目的地赤坂へと足を向け第一回東山道濃尾平野実走編は幕を閉じたのでした。


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★濃尾平野の東山道マップ  


東山道通過地点図 1         ★濃尾平野の東山道へ戻る

東山道通過地点図 2          ★濃尾平野実走編へ戻る 
東山道通過地点図 3          ★濃尾平野実走編へ戻る
東山道通過地点図 4         ★濃尾平野実走編へ戻る 

        
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