下の峠(しものたお)  233m (2006.10.6) 地図

山口県美東町(みとうちょう)絵堂(えどう)美東町長登(ながのぼり)
山口県美東町絵堂と長登の間にある県道241号・秋吉台絵堂線の峠である。

ここは※赤間関街道(あかまがせきかいどう)の中道筋(なかみちすじ)の峠で、幕末に高杉晋作の進歩派と長州藩の保守派とが戦った戦場跡である。

絵堂のあたり
※赤間関街道
長州藩内の道は萩城下を起点に作られていたが、最も重要なのが藩主が参勤交代に使う「お成り道」としての萩往還であり、次に萩と領内最大の商港・赤間関(下関)を結ぶ赤間関街道だった。赤間関街道には日本海沿いにつけられた「北浦道筋」、深川から山間部に入る「北道筋」、そして、萩往還と重複する明木
(あきらぎ)から秋吉、吉田、小月、赤間関へと至る「中道筋」の3本のルートがあった。

防長両国の正保道帳
(しょうほうどうちょう)によると、山陽道・石州街道・萩往還が「大道」に格づけられた。そして赤間関街道のうち、ここ「中道筋」は赤間関と萩を最短距離で結び、藩主の通常の通行路でもあったため「中道」に格づけられた。なお「北道筋」は「小道」、「北浦道筋」は海沿いの道という「灘道」に分類された。



麓付近には戦いの解説板や弾痕跡がある門とかがあり、長州征伐後、倒幕に至る※長州藩の動向が生々しく残されている。
絵堂の開戦看板 萩政府軍本陣跡の門
※長州藩の動向
1864年6月、新選組による池田屋事件が起きた。それに対し長州藩の過激派は暴発し、藩もそれを抑えきれず、家老三名が兵を率いて京都へ進発、7月、蛤御門の変(禁門の変)が勃発した。この変で、長州側は惨敗し、多くの志士や藩士が自決又は、戦死した。同7月、幕府は長州征伐(第一次長州征伐)を決定。長州藩内では保守派の俗論党が、進歩派の正義派を押さえ込み、政権を奪還した。俗論政府は、蛤御門の変の責任者として、三家老を切腹させ、四人の参謀を斬首させ、征長の実力行使は行われることなくすんだ。

その後保守派と進歩派の武力衝突により進歩派が勝利し、国論を統一した長州藩は1866年の第二次長州征伐で、幕軍に勝利を収め、討幕の路線を進んでいくことになった。



峠の近くにお地蔵さんが祀ってあった。祠はないため土地の人?が傘を立てかけてあったのが印象深い。
峠近く



峠から下りだして間もなくの所に、太田へ行く堪場道と下関へ行く赤間関街道との分岐点がある。立ててある道標には「左太田 右せきみち」と刻まれている。赤間関街道の方はダートで、標高を落とさず等高線に沿って走っているようだ。
赤間関街道との分岐点
道標と案内板

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