境の明神(奥州街道) 414m (2007.10.16) 地図

栃木県那須町寄居明神−福島県白河市白坂(しらさか)明神
栃木県那須町寄居明神と福島県白河市白坂明神との間にある国道294号線(奥州街道)の峠である。

この白坂地名のように白坂という小さな丘というか峠みたいなものも存在していて、その辺りに源義経ゆかりの人物「金売吉次の墓」もあるようだ。
八幡神社から奥へ入ると「金売吉次の墓」があるようだ



東山道の境明神でも紹介したが、ここは栃木と福島の県境というだけでなく、関東と東北(奥州)との境である。そしてここは江戸時代の五街道のひとつ奥州街道の峠であった。現在の大動脈・国道4号線と東北道がもう少し西を通っていることから見ても、年代が下がるにしたがって西へ西へと移動したわけである(何故なのかは地元民ではないのでわからない・・・)

峠には境の明神東山道では下野側だけだった境明神社が峠の両側に並立して残されている。

国道294号線 峠、栃木県側の境明神が見える
福島県側の境明神



というわけで、どちらも国境の神様なのである。

白河側の境明神と道をはさんで向かい合っている家には「白河二所関址碑」なる看板が掲げてある。階段を上ってみると、それらしき石碑があった。

白河二所関址碑看板 白河二所関址碑

石碑に書かれた内容は・・・
白河の関は古くから二所ノ関と呼ばれ、八溝準平原の中を奥州路はここで道を幾通りにも選べるのである。
白河楽翁により指定された今の旗宿道は其の一本である。然しこれより西側三キロの所を通っている白坂道
は昔からよく利用され、古の関蹟にみられる関の男女 の明神址があり、古関の体裁をもっともよく保ちながら、
白坂の関址は全く無視されて来た。余、多年関境の研究に没頭し、江戸時代よりの関守の家である石井浩然
(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に
当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に紀念
碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものである。 

   昭和五十七年五月建立  
   理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授  岩田孝三
   白河関守 石井浩然
   』

皆さん、お気づきかどうか・・・二所関→二所之関→二所ノ関
ここから大相撲の二所ノ関部屋がネーミングされたといわれているのですねえ(^^;)


そして、ここにも東山道と同様「従是北白河領」の石碑が立てられ、ここが重要な場所であったことが伺われる。
「従是北白河領」の石碑



那須町側から観察する。こちらの境明神の方が敷地や造作そのほか広々と作ってあり、規模も大きく解説板もきれいである。東山道の境明神が那須町側にしかないことを考えあわせると、文化財に対する姿勢の違いが伺えるというものである。

那須町側から
栃木県側の境明神


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