位山峠(くらいやまとうげ) 1087m (1976.8.9、2001.6.13、2004.6.5) 地図 2.5万図

岐阜県下呂市萩原町上呂(じょうろ)−高山市一之宮町段
下呂市萩原町上呂から山之口を通り、高山市一之宮町段へ越える峠である。

位山峠から苅安峠を越え、宮村の飛騨一之宮水無
(みなし)神社まで辿る道筋は律令時代の官道、東山道支路であった。そのルートは平安時代の延喜式(927年)によると、東山道の方県駅(岐阜市長良)から分岐し、武儀駅(関市付近)・加茂駅(下麻生の付近?)・下留駅(しものとまり、下呂市下呂町)・伴有駅(とまり、下呂市萩原町上呂)・石浦駅(高山市石浦町)の5駅が、飛騨官道の駅とされていた。しかし加茂駅は菅田駅(すがた、下呂市金山町)ではないかとの説もある。
上呂駅前の分岐点を左折(9:08)



天正14年(1586年)金森長近が飛騨一之宮水無神社の脇から宮峠を越え、益田川沿いに河内路(こうちじ)(国道41号線と同じルート)を開いてからは、河内路の宮峠通に対し、位山通と呼ばれるようになった。

東山道支路の伴有駅と推測される上呂
(注)から国道を離れ、飛騨川を渡る。渡河地点より少し上流に「あさんづの橋所 石碑」がある。昔河内路がなかった頃にあったという「あさんづの橋」(浅水の橋)を偲んで建てられたという。この「あさんづの橋」明治になってから吊り橋になって復活していたらしく「あさんづの橋所 石碑」前には「東海北陸自然歩道 山之口街道上呂展望の道」なる道標が建っていた。その先に吊り橋跡があった。

(注) 伴有駅は、下留駅ができてから上留といい、後に上留を音で読まれるうちに、やがて「上呂」となったようである。
上呂、現在の浅水大橋(9:10) 「あさんづの橋所 石碑」(9:15)
東海北陸自然歩道道標


飛騨川沿いの右岸道路と分岐し、道は山之口川沿いに登っていく。また道端に道標を発見した。今度は「匠街道」になってる(ー_ー)

確かに「飛騨の匠の道」かもしれないが、こんなマイナーな道によってたかって命名しないで欲しい。道標建てるお金が勿体ないよ。
「匠街道」道標(9:23)


山之口公民館前まで来ると、分岐点。ここにまた道標が・・・。東海北陸自然歩道はいつのまにか「位山街道峠越えのみち」に変わってるし、行き先には「飛騨匠街道」の道標が出てる。いい加減にしてくれないかなあ(--メ)
山之口公民館前(9:55) 東海北陸自然歩道の道標



で、右の谷へ直進する。ドンドン登っていくと、川を渡った地点に「位山官道 匠の道」の標識が現れた。ここから道は県道98号線を離れ、旧道に入るようだ。

しかぁし、そこには石畳があった。昔来たときには峠付近で見た記憶はある。でも中腹からあったとは・・・標高770m地点である。峠までは標高差300mもある。見つけたからには行くしかあるまい。
石畳出現(10:20)



石畳を押す。押しは想定してこなかったので今日はビンディング靴。おまけに担ぎパッドもなし。それでもダート山道ではないのが救いである。おまけに勾配が緩いのでありがたい。この石畳復活させたものらしく、コンクリートで固めてある所が多い(^^;) 興醒めといえぱ興醒めだが、草付きの所もあるので我慢我慢。
だんご渕の横



旧道はいったん県道に出る。車道を走ると勾配はあっても嘘のように楽である(^^;) しかし、峠近くにも石畳があった筈だが・・・。15分ほど走ると、池?の横に位山神社が現われた。そしてその先に石畳の道も・・・
県道に出た地点(11:00) 位山神社(11:14)



今度の石畳道も川の横。橋もかかっている。勾配は熊野古道のように酷くはないし、楽々押していける。しかし上に行くほど草付き道が多くなってきた。
橋のポイント(11:20) 草付きの石畳(11:26)


そんな石畳道も最後は急坂になった。すぐそこが峠なのだ。
峠直下(11:33)



峠には、東屋が作られ、休憩できるようになっている。また峠一帯には岐阜大学応用生物科学部の「位山演習林」が広がっている。

峠は以前来たときと違い、工事中で掘り下げられ無惨な姿になっていた。
位山峠(11:40)



また峠には「あさんづの橋所 石碑」と同様「位山」と刻んだ石碑と小さな石仏があった。その横には2級基準点があり、道の反対側には峠道に関する詳細な解説板(注)があった。

(注)
この道を通って都と行き来するものに「飛騨工(ひだのたくみ)」があった。「飛騨工(ひだのたくみ)」というのは大和朝廷が各国々を大・上・中・下の4段階に分類したとき飛騨は耕地も少なく、米などの産物も充分にできない「下」の国とされた。しかも租庸調の税すら納められないほど山国なので「飛騨は庸調を免ぜよ。その代わり1里ごとに匠丁10人を出すこと」と命じた。この人達を「飛騨工」と呼び、飛騨全土で100人くらいの人が毎年都に上がり、宮殿や社寺の造営に従った。これは全国でも飛騨の国だけの制度で、平安時代まで400年にわたって続いたという。工たちの仕事は過酷で年間330日から350日の労働が課せられ、この日限にならぬと帰郷が許されず、逃亡する者が絶えなかったという。
位山通りは逃亡者が出ると代わりを出さねばならない厳しい条件のもと、妻子と別れて都へ向かった飛騨びとや日限が明け、晴れて帰郷が叶った人達が越えた峠道なのであった。
「位山」と刻んだ石碑 石仏
2級基準点 解説板


峠から下りていくと、看板どおり工事中だった(ー_ー)
崖を崩した端っこを迂回し、無数河川(むすごがわ)の渡河地点も水芭蕉群生地を廻って道に戻らなければならないほどの工事だった。
工事中(12:01) 水芭蕉群生地




そのまま下ると、無数河川に作られた防災ダム、あららぎ湖の横に出る。ダムの背景はとうぜん位山である。飛騨の匠達はここで位山に別れを告げて、都に出かけたのだろう。 しかし、この位山への公式登山道はお隣の苅安峠にある。では、位山峠は?というと、実は位山の近くにある別の山と舟山(アルコピアスキー場がある)との鞍部にある峠なのだ。しかし

1.位山峠の方が位山の頂上に近いこと
2.標高1087mの位山峠に較べ苅安峠は885mと標高が低いため、有名な位山の名前を冠するのは憚られたこと
3.通行する人々も有名な位山を望見できる所(位山峠のあららぎ湖)が位山峠と感ずるであろうこと


などからこちらを位山峠とネーミングしたのはごく自然なことだと思われる。
さらに下ると、久々野へ出る道との分岐点に着いた。
あららぎ湖のバックは位山(12:18) 久々野へ行く道との分岐点(12:27)



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