越前峠大雲取越えおおぐもとりごえ 846m (2010.11.26)  地図

和歌山県新宮市熊野川町小口(こぐち)−熊野川町大山 (おおやま)
和歌山県新宮市熊野川町小口と熊野川町大山との間にある熊野古道の峠であり、熊野那智大社と熊野本宮とを結ぶ大雲取越えの道で、中辺路(なかへち)に属するらしい。

昨日の小雲取り越えの後、今日は今回の熊野古道行き最強のルート、大雲取越えである。何しろ標高差800mの山道峠、山道部分だけでも14kmある。しかも前後のアクセスは別なのである。

そこで道の駅「瀞峡街道 熊野川」に車をデポして周回ルートにするよう計画。その辺の苦労は最後の峠(大雲取越えのなかに何個かピークがあるのだ)のところで書くことにして、まずは道の駅をスタートする。今日のコースは昨日とは較べものにならないくらいハードだし、道の駅まで帰ってくるのにJRやバスを組み合わせる計画なので昨日は9時に出発した道の駅を今日は6時半に出発した。
道の駅「瀞峡街道 熊野川」(6:30)

                      大雲取越え全体地図


道の駅をスタートし、昨日の小雲取越えと同じ県道44号線でアクセスする。今日は小雲取越えの登り口・小和瀬の先にある小口の集落で県道44号線と別れる。小口の集落へ入っていくと、東川の川沿いにいきなり急勾配の階段が現れる。ここが大雲取越えの入り口である。那智大社まで14kmとある。山道ばかりの14kmは時速2kmとすると7時間かかる勘定だ。おおかた想定どおりだな!集落の端っこに階段があって、熊野古道は鋭角に登っている。民家の横を何気なく入っていく感じである。

小口で県道44号線から離れる(6:54) 東川の川沿いにある急階段(6:56)
熊野古道へ入る(7:00)



はじめの階段はすぐに石畳になった。熊野古道はこうでなくちゃ!振り返ると小口の集落が霧にかすんでいる。そして石仏が祀られている所を過ぎると斜面が崩落している地点があった。

石畳に(7:02) 小口の集落(7:03)
石仏のあった地点(7:10) 崩落地点(7:12)



しばらく登っていくと大きな一枚岩のような岩盤を登坂する地点が現れた。けっこう急傾斜なうえに苔むしているので、山靴でもツルツル滑る。何本も横向きに固定した丸太がなければメチャメチャ苦労する所である。そこを過ぎると石畳地点が出てきたがここも苔むしていて、石畳より横の土の部分の方が危なくなかった。

ツルツルの一枚岩の岩盤(7:20)
滑りやすい石畳(7:22)



しばらく登ると「円座石(わろうざいし)」という看板が置かれた広場が現れた。ここにある大石が熊野三山の神が円座になって談笑したように見えたことから付けられたらしい。

円座石(7:32) 円座石の案内板
急な階段(7:38) (7:39)



階段ならともかく石畳でもこれだけ急角度だとまともに滑るので往生する(--;) そんなところに石碑があった。「わが越ゆる大雲取の山中に円かに坐す地蔵菩薩は」小雲取越えでも紹介した杉浦勝の歌である。

急角度の石畳(7:41) 歌碑があった(7:49)
杉浦勝の歌碑 石畳(7:55)



途中で東屋が出てきた。心身ともに余裕がなくてよく覚えてないが、写真を見ると蛇口が設置してあって水場になっていたようだ。そこから少し登ったところに楠ノ久保旅籠跡があった。看板にもあるように、当時はここから小雲取越えの桜茶屋が見えたようである。この辺りでハイカーに抜かれた。彼らとは少し言葉をかわした。じつは昨日小雲取越えの百間ぐらで出会ったというのが彼らだからである。おそらく小口で一泊したのだろう。

水場のような東屋(8:02) (8:07)
楠ノ久保旅籠跡(8:11)



あいかわらず石畳が続く。急坂ばかりではないけれど、あまり続くと嫌になってくる。

大岩(8:38) トラバース(8:38)



そして、最も苦しいとされる峠直下の胴切坂。既に尾根筋で空も見えるので峠頂上にも近そうなのに、傾斜は半端ない。そしてかなり登っていったのに、スイッチバックに近い曲がりがあり、まだ登っていく。

胴切坂(9:04) 胴切坂、峠近くなのに、傾斜は半端ない(9:24)
かなり登ったのに・・・(9:30) まだ登るの?(9:37)



とにかくこの胴切坂、その名のとおり、やたらタフである。傾斜が急すぎて一気に登ることができないので、距離以上に時間がかかる。

まだまだ登る(9:39) まだ登る(9:52)
最後に近い(10:08)



そして、やっと峠に到着。なんで熊野古道の大雲取越えに越前峠なんて名前が付いてるのだろう?かっては越前まで見通せた?ことから付いたらしい。

峠には土屋文明の歌碑があった。「輿の中海の如しと嘆きたり石を踏む丁のことは傅えず」建仁元年(1201年)十月、後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉を命じられた歌人・藤原定家が『後鳥羽院熊野御幸記』の中で書いた「輿の中海の如し」を、頭に置いて詠んだようだ。確かに山道を行く輿の中は揺れまくって海のようだったろう。しかし実際に輿を担いで石畳を歩いた丁には思いが至っていない。と土屋文明が皮肉っているのだ。

越前峠(10:14)
土屋文明の歌碑



しかし、定家の記録『後鳥羽院熊野御幸記』などでは当時の熊野御幸は数ある王子ごとに沐浴潔斎をしなければならなかったり、陰陽師の卜占によって定められた出発の日時は雨でも変更できず、雨の中の出発もあったそうである。それに定家は二流貴族のため、御幸で与えられた仕事は先達。すなわち一足先に行って宿の確保をすること。よって常に早起き、先行しなければならない。しかも当代屈指の歌人だったため、夜は夜で歌好きの後鳥羽院に歌会に呼ばれる。熊野三山への往路十五日間に開催された歌会は十回に及んだそうだ。だから就寝時間は夜遅くなり、しかも翌朝は誰よりも早く起きなければならない。

そして定家は風邪を引いて体調も最悪になってしまう。そんななか那智から熊野本宮までの雲取越えがあった。しかも当日は《水中に入るが如》き豪雨だったという。咳と水洟の絶えない定家には《前後を覚えず。この路、険岨過ぎ難し。大行路においては記すに遑ある能わず。》と記述する気力も失せていたようだ。

越前峠の先は胴切坂下り五十丁。「十二人の輿舁きが一人でも足を滑らせれば、定家はひとたまりもなく、谷に投げだされてしまう。」恐れがあり、しっかりと輿につかまり、姿勢を維持しなければならなかったが《此の辺りに於いて、たまたま雨止み了》り、無事大雲取越えを通過できたそうだ。しかもこの後小雲取越えも一気に越え、一日で本宮まで達しているとのことで大変な速さである。私たち現代人が2日がかりでもヒーヒー言ってるのだからその苦労や押して知るべしである。

越前峠から下る。ここもけっこうな急坂だ。石畳もあるが、すべてそうではない。

峠から下る(10:18) 石畳の急坂(10:28)
麓近く(10:33)



麓のように平らになったところに石橋がかかっていた。地蔵茶屋跡まで1.4kmの道標がある。

麓の石橋(10:35)



最後にいつものようにダート峠での動画である。

大雲取越え・越前峠の動画



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