峠の茶屋番(木ノ芽峠) 1999.10.23


霧の中に立つ前川さんと黒犬(木ノ芽峠)


今庄と敦賀の間にある山嶺は昔から難所として立ちはだかっていた。そして今でも天気予報などで嶺北地方・嶺南地方と呼ぶほど大きな存在なのである。この山嶺を越える道は昔から2ルートあって、ひとつは栃ノ木峠・椿坂峠を経て滋賀県木之本に抜ける北国街道。そしてもうひとつが木ノ芽峠(注)を越して敦賀へ行く北陸道であった。

(注)平安時代の天長7年(830年)以前は山中峠だったらしい


九頭竜スキー場で行われるニフティのキャンピングカーのオフを控えた1999年10月23日。今庄からこれらの峠群を攻めようと私は愛用のパスハンターに跨った。丁度栃ノ峠から木ノ芽峠の近くを通って旧北陸本線山中トンネルの辺りまで林道ができているようなのでこれを使えば峠3連発を一気にゲットできるはずであった。

出発地点の今庄のはずれには文政の道しるべという石の道標が立っていて、北陸道と北国街道の追分けになっている。こういうものを見るといやが上にも街道ウォッチング気分が高まって来るというものだ。まずは一気に山嶺の稜線へ辿り着くべく栃ノ木峠へ向かうことにした。

途中には板取という関所代わりのような集落があり、家の作りも土蔵のようなどっしりしたものであった。そして旧街道をアピールする看板や関所のような門も作ってあって、その門の下の道は石畳になっていて直接木ノ芽峠へ通じる旧道になっているそうだ。


しかし自転車で周回するには石畳やシングルトラックを登っているわけにはいかないので今回は車道を辿って栃ノ木峠へ登っていった。

この峠道は谷を最奥まで遡ってから山腹を巻いて登るオーソドックスな作り方であるため傾斜も適度だし景色も素晴らしい。うねうね度も大変心地よく、峠の中腹に関しては私が最も好きな峠のひとつに数えられよう。
しかし峠の頂上は余呉湖スキー場となっているため福井側の景観とはまるで相容れないものだけに残念としかいいようがない。

でも本当の懸念はうねうねが始まった頃から悪化しつつある天候なのである。ポツポツと降り出した雨に加えて強風も吹きはじめ、今庄の天気が嘘のようである。げに北陸地方の「傘忘れるな」の天気は健在だと思わざるをえない(ToT)

おまけにお目当ての林道も舗装工事のため通行止めときたもんだ。ここまで来てそれはないだろうとお約束の強行突破するつもりで林道に足を踏み入れた。


時雨と強風は依然納まる様子もなく稜線上の林道もガスっていては大パノラマなるものもお目にかかれず、工事中だというダートを過ぎた頃、木の芽峠と木の芽城塞という看板、そしてトイレにラーメンハウス(後に365スキー場の施設と判明)という何とも俗っぽいエリアに出くわした。

解説本によるとここらには言奈地蔵(イウナ)とか峠の茅葺きの民家なるものがあるという。しばし探索してみたあげく閉まっているラーメンハウスとトイレの間の階段を自転車を担いで登って行ってみると、果たしてその民家と木ノ芽峠がそこに存在していた。

峠の前後は石畳が敷き詰められ周りは霧に包まれて、まるで戦国時代にタイムスリップしたかのようなロケーションであった。
峠の石碑や茅葺きの民家を撮影していると、民家の中から黒と白の大きな犬が2匹飛び出してきて、写真撮影をする私にまとわりついてきた。はて?この民家には今も人が住んでいるのかと考えを巡らせていると、初老の男性が犬を呼び寄せた。

彼は前川さんというのだが、そのまま家に入っていって朝の勤行を終えてから「写真を撮ってやる」と私を写してくれた。そして自転車で来たのなら茶を飲んでいけと家の中に招き入れてくれた。
少し濡れたのと寒くなりかけていたのでこれは正直有り難かった。そして昔ながらのいろりにかけた鍋の湯で入れてくれたお茶を何杯も飲ませてくれながら前川さんは語りだした。

「ワシは桓武天皇の末裔や」「源氏ですか?」「いや、平氏の方や。壇ノ浦で滅ぼされたが、落人部落のように隠遁せず名前を変えて生き延びたのや。ウチは平清盛からの直系で福井に落ち着いてから織田町の宮司をしていた。そしてその弟筋に当たるのが織田信長なんや」ううむ、そう思って見てみると正面には不動明王立像がデーンと飾ってある(@_@)
「そして戦国時代に朝倉との戦いに敗れてここ木の芽峠付近にまた名前を変えて逃れてきたのだが、次に信長が朝倉と戦って浅井の裏切りに遭ったときには秀吉らが逃げるのを手助けした。そして秀吉が柴田勝家を滅ぼした時に秀吉がここへ寄って家系図を見て主家筋と驚き、金ヶ崎の戦いの尽力などに感激して、もう一度武将に戻るか自分の部下になってくれと頼んだそうだがご先祖様はどちらも断ったので秀吉は金の茶釜と戦陣釜をくれたのや」とその釜を見せてくれた。
「関ヶ原以後は家康の息子結城秀康の客分になり、木ノ芽峠の茶屋番兼関所役として福井藩の扶持米を貰って江戸時代を過ごした。明治時代は廃藩置県で職もなくなり人にだまされたりして苦労した。自分も岐阜に暫く居たが、親の体調が悪くなった頃に戻ってきた。」

というわけで今はその民家に住み、お茶をふるまい、峠だんごや峠グッズを売って生計をたてているようである。とにかく前川さんに貰ったとんでもない名刺が手元にある。曰く、桓武天皇から始まっていく・・・・・
長居をしてる間に10人ほどのハイカーが尋ねてきたが、前川さんは殆ど同じようなことを喋っていた。今日はまだ150人ほど上がってくる予定だという。寂しいかと思ったらその実結構忙しいのかもしれないなあ。
前川さんのところを辞去すると有り難いことに天気はすっかり良くなっていた。旧道を通って林道に出て行くまでに言奈地蔵(イウナ)の前を通り過ぎた。その後林道はところどころダートを混じえて稜線を走っていく。天気が良くなったので旧北陸本線や北陸道の杉津PAを凌ぐ大パノラマが見えた。

しかし前半の霧雨と前川さん、そして後半は至福の大パノラマに酔ってしまい、笠取峠だとか山中峠の探索を忘れて、そのまま旧北陸本線跡まで下ってしまったのは大失敗だった。

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