賤ヶ岳(しずがたけ) (2002.12.1)

          更新 2002.12.27
地獄越のお地蔵さん
賤ヶ岳(標高421.9m)は木之本町と余呉町の境界に
位置し、琵琶湖国定公園に指定されている。
東に伊吹山、小谷山を望み、南にびわ湖、竹生島、
北には羽衣伝説の余呉湖を眺める湖北随一の景勝地
である。

また賤ヶ岳は信長以後の天下を巡って羽柴秀吉と
柴田勝家が戦った舞台でもある。
秀吉は大垣から木之本まで13里(約50km)を5時間で
取って返す大返しと、「賤ヶ岳の七本槍」といわれる
子飼いの武将の活躍によって勝利を得た。

しかし賤ヶ岳は湖北を分断する山塊で、
交通上厄介な存在であった。今回は中庄谷直氏の著書
「関西周辺、低山ワールドを楽しむ」を参考に賤ヶ岳を越える
峠道を探ってみた。













・・




飯浦越(はんのうらごえ、あちら坂 (2002.11.21) 地図

余呉湖の西岸と琵琶湖岸の飯浦を結ぶ峠道である。

余呉湖の東岸には、その昔天女が舞い降り衣を掛けたといわれる衣掛柳が残っている。衣掛柳から見る余呉湖は朝靄でかすみ、湖岸に参集した人馬の鼻息が聞こえてくるようである。

余呉駅で本日の同行者keroさんとoookaさんに合流した。
          余呉湖畔の衣掛柳
ルートとしては賤ヶ岳山頂を経由し、賤ヶ岳の戦いをなぞる尾根道縦走コースと正直に峠道をトレースする案が考えられた。我々は正直案を選択した。

まずは余呉駅から余呉湖南岸を回り込み、西岸の国民宿舎余呉湖荘まで行く。初冬の湖面は鈍く光り、我々の走行に驚いた鴨達の羽音が静かな湖面をさざめかせる。
     余呉湖へ走る。正面の鞍部が飯浦越
国民宿舎横まで来ると「賤ヶ岳遊歩道、飯浦越の切通し」の看板が立ててある。この道筋は賤ヶ岳合戦当時もっとも激しく戦われたところで中でも石田三成や大谷刑部ら秀吉十四人衆の戦で有名だそうである。
      モデルはkeroさん(8:05)


峠道はダートの山道であるが、よく踏みしめられており、落ち葉の散り敷く中、階段やクネクネの葛折りを登っていった。
        oookaさんとkeroさん        正当派担ぎのkeroさん


峠には何個か案内板があって南東からは賤ヶ岳山頂からの道、北西からは地獄越への尾根道縦走路が下りてきている。
              峠直下             飯浦越 (8:30)
峠から飯浦側へ下りていくと、通行によってへこんだ道筋や石畳も見られ、よく使われた道のようである。落ち葉が深く、石畳や浮き石が隠れているのでMTBの乗車率は30%程度だった。
           へこんだ道筋
麓の集落、飯浦まで下りてくると石塁の端に石仏が2体あり、集落のはずれの結界のような気がした。

飯越なる名前は当たり前すぎるが、「あちら坂」はなんの意味かわからない。

おそらく飯浦側にある地獄越との対比で黄泉の国との境にある『よもつひらさか』つまり「あちらの世界」を意識したネーミングのように思われる。
             飯浦(8:45)



地獄越(じごくごえ) 地図

地獄越とはこれまた大仰なネーミングだ。

塩津側にある案内板によると「賤ヶ岳の合戦から退却する柴田勝家の軍勢がこの急坂を地獄のような思いで苦労しながら越えたため地獄坂とよばれるようになった。そして塩津の平地へ出て、娑婆へ出たような気持ちで一息ついた辺りが娑婆という名がついた」そうだ。

しかし我々は国土地理院を信用したばかりにいつわりの地獄を味わうことになってしまった(~_~)
   左の鞍部が地獄越 (9:00)


飯浦から正面に見える送電線が通っている鞍部が峠に違いないと我々はアタックを開始した。麓にはお地蔵さん?の祠もあったし、疑いは微塵も持っていなかった。ところが登り口には日本電気硝子の保養施設のようなものが建っていて、脇には古道には似つかわしくない階段が付いていた。

参考書の「低山ワールドを楽しむ」は反対側の塩津側から越えているため記述が参考にならないのでとにかく登ってみることにした。しかし坂が急すぎる。登っていくと送電線への巡視道であることが明らかになってきた。

そのまま行っても尾根に取り付けそうにないので山を少しトラバースすると石塁で囲まれた道があったので再アタック開始。こちらも相当な急坂であったが、登り付いた所は峠と思しき鉄塔よりひとつ下にあたる鉄塔だった。
       アタック開始        ひたすら担ぐ


指呼の所に峠の鉄塔はあるのに山林が邪魔して辿り着けない。尾根まで上がれば縦走路があることはわかっている。しかし尾根まで上がる道もない。それからも谷筋を登る道など探したが、ルートが発見できず、塩津側からアタックしようということで撤退した。
   左側が峠。右下の鉄塔まで行って撤退(ToT)


塩津側へ行くのにトンネルを回避し、旧国道のドライブイン前を通り過ぎると看板らしきものがあった。ドライブインの裏に回ってみると、はたせるかな、こんな所に正式な登り口があった。
           正しい登り口 (11:00)


騙された登り口に較べてもその明瞭性は段違いである。こんな道なら地獄でも何でもない。しかしあの山中の探索活動は何と2時間もかかった。山用語でアルバイトとは苦しい行程とか余分な動きを意味するらしいが、この2時間は大いなるアルバイトだった(ー_ー)

さて、アルバイトの山道に較べりゃ安楽越(こういう名前の峠は実は三重県にある)ともいえるこの峠道。道は広いし、傾斜は程々だし、気持ちよく押し担ぎができた。
     地獄越?の峠道
地獄越とはとても言えない峠道は30分で峠に到着した。アルバイトの山道で2時間かかったことを思えば天国越である。ハイカーが通る道はほんまに天国だ。

峠にはお地蔵さんがいて琵琶湖を見下ろしている。眺望が素晴らしく、ベンチでお昼をとった。
地獄越のお地蔵さん
                地獄越の峠 (11:30)
塩津側の道もつづら折れなれど、MTBの乗車率は70%くらいの感覚だった。やはり天国である。麓付近の「地獄坂」の案内板が空々しく思えるほどだった。

しかしあの国土地理院の地図の謎は?飯浦側の山道は尾根道になっていた。しかし飯浦の集落から見ると外れた地点に道が付いている。ひょっとしたら本来の道は我々が苦労したあの道だったのかもしれない。

本来の道が廃道になって後世に遊歩道として楽な道が整備されることだってあり得る話だ。
        琵琶湖の眺望



権現坂越(足海越) 地図

余呉湖北岸の集落、川並と琵琶湖北岸の塩津にある祝山(ほりやま)の間を結ぶ峠道である。

我々は地獄越を終えた後、参考書「低山ワールドを楽しむ」にしたがって、祝山から東に入った。山中に入るとすぐ文室山越(ふむろやまごえ)への道を分ける。権現山越は右へ入る。少し走ると記述のように石碑があり、さらに登ると怪しい分岐がある。
           石碑


草が付いて廃道くさく思えるのだが、位置といいここが登り口のようだ。入っていくと手入れしてない林が広がり、道が特定できない。それでもよく見ると狭い谷の左側に真っ直ぐ登っていく道筋がかすかに見えた。ラインを辿ると確かに周りより窪んでいるし、ほかと違って路盤が平らである。でも巨大なシダや熊笹が繁茂し、倒木が道をふさいで単身で登るのにも難儀する。

ここから先、道は狭く、傾斜もきつくなって迷いやすい道なのだそうで、時間も14時近くなり疲れも覚えてきた。そこでここは別の機会に譲ることとしてまた撤退することにした。
      これが権現坂越の道だ



大音越(おおとごえ) 地図

琵琶湖岸の飯浦(はんのうら)から木之元の大音へと越える峠である。

権現坂越から撤退し、木之元へと進路をとる。賤ヶ岳隧道へ入る手前に斜めに登っていく旧道がある。帰り際のひとあがきにここを登ることにした。
          右が国道8号線
だんだん高度が上がっていくと、北琵琶湖を俯瞰できるようになる。竹生島(ちくぶじま)や月出岬が美しい。
        旧賤ヶ岳隧道手前より
そして明治時代の鉄道跡にあるような赤レンガのトンネルが現れた。トンネル脇には清水が湧いている。清水は予想したより暖かく地下水と思われる。

トンネルの横には「湖の辺の道」の標識があり、大音へ越える旧道の登り口のようだ。
           旧賤ヶ岳隧道
「湖の辺の道」は落ち葉散り敷く道なれど、そこそこの道幅で歩きやすい。トンネルからの標高差は100m近くあった。
峠近くに分岐があって、分岐から入ってすぐの所に「首切地蔵」がある。後で気がついたが、「首切地蔵」の脇を通る山道こそ本来の大音越の道だったようだ。
           首切地蔵
「首切地蔵」から峠は近い。北琵琶湖の景観もふるいつきたくなるほど格好いい。
           北琵琶湖の景観
峠からは賤ヶ岳を経由して余呉湖へ行く尾根道が伸びている。しかし肝心な大音へ下りる道がまたまた廃道くさい茂みに隠れている。

ここから藪漕ぎするのはもう勘弁して欲しい。我々はピストンで旧トンネルまで戻り、トンネルを潜って大音の集落へと下りていった。
       大音越 (暗い茂みが本道)

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