飛騨街道(くらいやまどおり) 更新 2004.6.7

地図
・・ 大宝元年(701年)大宝律令によって、我が国の道路制度が制定されたとき、都から飛騨の国府を通り、野麦峠経由で信濃の国府(松本市)までを結んでいた道筋を東山道古道と云い、重要な官道であった。

和銅6年(713年)に吉蘇路(木曽路)が開かれてから東山道は美濃から木曽川沿いに信濃へ行くようになったため
(注)、飛騨の官道は東山道支路とされた。平安時代の延喜式(927年)によると、東山道の方県駅(岐阜市長良)から分岐し、武儀駅(関市付近)・加茂駅(下麻生の付近?)・下留駅(しものとまり、下呂市下呂町)・伴有駅(とまり、下呂市萩原町上呂)・石浦駅(高山市石浦町)が飛騨官道の駅と定められたという。

天正14年(1586年)金森長近が一之宮神社の脇から宮峠を越え、益田川沿いに河内路(こうちじ)(国道41号線と同じルート)を開いてからは、河内路の宮峠通に対し、位山通と呼ばれるようになった。河内路は洪水や崩落などが多く、ルートの安定性などからその後も交通量は結構あったらしい。

    (萩原町教育委員会、飛騨の峠より)
(注)東山道のメインルートは中津川から恵那山の鞍部・神坂峠を越えて、飯田へ出るものとされている。しかし、信濃の国府も初め上田、次に諏訪、最後が松本になったという説などがあって、悩ましい。