保福寺峠遭難ツァー(1997年11月の雑誌 FIELD BIKERS VOL.7に掲載の話) 2006.1.22更新


       FIELD BIKERS編集長の澤田 裕様筆

FIELD BIKERS VOL.7の編集にあたっては、「地図」および「自転車盗難」に関する体験談をFCYCLEのみなさんからお寄せいただきました。ナワ〜ルドさんの体験談を「特集 地図」の枕に使わせていただいたのを始め、みなさんの体験談のおかげで充実した誌面を作ることができました。この場を借りてお礼申し上げます。

本文

23年前私が学生の頃のことです。当時、自分の住んでいる辺りの5万図は手に入りましたので岐阜市周辺や京都の北山あたりは5万図が真っ赤になるくらい走り込んだものでした。しかし遠方に行く場合は何度も行くわけでもないし、手に入りにくいのも手伝って20万図しか揃えていませんでした。

1974年3月下旬。春休み中に無性に信州へ行きたくなりました。第一法規出版から出ていた「信州の峠」市川健夫著の保福寺峠の写真と文章にえらく感動したためです。とにかく保福寺峠へ行きたいという思いだけで、安易に信州へ出かけました。松本方面からのアプローチは雪が被った北アルプスが一望できて額面どおりの素晴らしさでした。
ところが保福寺の集落を過ぎ峠の登りにかかると路面に雪が現れました。しかもやや溶けかかった湿った雪です。当時のマッドガード付きランドナーでは雪も泥もすぐに詰まってしまってタイヤはロックしまくりました。路面自体は固くしまった地道の林道です。しかし動かんものはしょうがないのでランドナーは肩の上というクダラナイ状況になってしまいました。

 峠までなんとか辿り着いたものの時刻は5時に近い。急いで下りないと・・・・下りなら何とかなるだろうと無理矢理乗ってみてもスピードは全然出ません。しばらく下りていくと分岐点が現れました。真っ直ぐ行くと登り(鹿教湯別所上田線)になってしまう。しかもこの道は地図に出てない。持っていった地図は20万図の長野(昭和42年発行)。これには該当の林道は書かれてなく、旧東山道の名残りと思われる里へ下りていく道しか書いてありません。

真っ直ぐ行く道はどこへ通じているか定かでないし、時間的にもこれ以上は登れないので左側の里へ下りると思しき道へと入りました。結果的にはこれは正解でした。
後年に行ったときのリベンジ画像
 あたりはドンドン暗くなっていきます。下方に集落の灯りが木の間越しにチラチラ見えてきました。とまた小分岐がここで致命的なミスを犯しました。やや細いながらもそちらの道は先ほどから見えている集落の灯りに向かって一直線に下りていくように感じられたのです。寒さと闇に怯えだした者にとって下方へ伸びる道はあまりにも魅力的でした。

 進むにしたがって道は狭くなり雑木林を転げ落ちるような感触になってきました。進む先もバッテリーライトの照らす範囲しか分からなくなりました。それでも先に進むとやっぱりというべきか崖になってしまいました。目指す集落の灯りは手に取るほど近ずいているのに・・・・ここで、さすがに引き返すより道がないことを悟りました。

 振り向いてみるとどうやって下りてきたのかと思うほどの勾配が目に入りました。「自転車を持っていっては登り返せない。ここに置いておかなければ共倒れだ。」こうして最愛の愛車を雪の山中に置き去りにしてバッテリーライトとフロントバッグを持って今下りた山道?を登り返し、必死になって小分岐点に戻りました。そこを今度は大きい方の道へと曲がり何とか里まで下りることができました。しかし時間的には8時を回っていたでしょうか?そんな時間にこの山里に宿などあろうはずがありません。最初に目に付いた家の戸をたたき一夜の宿をお願いしたのでした。

山里の家で見ず知らずの変な若者が戸を叩く・・・考えように寄っちゃあ恐ろしいことですが親切な初老のご夫婦は「そりゃあ、大変だったね。食事まだだろう」と一宿一飯お弁当付きのおもてなしをしてもらえたのです。翌朝ご夫婦から借りた長靴を履いて山中に置き去りにした自転車をとりに行き、ご夫婦の元を辞去することができました。

 峠といえどもひとつ間違うと遭難しかかるというお恥ずかしい実例でした。この場合、詳細な5万図を持っていたらもう少し冷静に判断ができたかもしれません。ちなみにその時の20万図は今も健在でこの春にはぶどう峠の高さを200m読み間違えるもとになったりして私自身をして「懲りない奴だなあ」と感じさせる証拠物件になっております。また山中から拾ってきたランドナーはniftyserveのランドナーOFFにも参加した由緒正しき?品物でもあります。

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