五僧峠 590m(2000.5.14、2002.4.13) 地図  2.5万図

滋賀県犬上郡多賀町五僧−岐阜県養老郡上石津町時山
天下分け目の関ヶ原の合戦。大阪方西軍の負け戦のなか、鮮やかに退却したのは島津義弘である。徳川家康の本陣に突っ込み、そのまま退却していった。この五僧峠はその島津隊が逃げるときに通った峠なのだそうだ。

五僧という名前は岐阜県側の中腹の集落、時山から五人の僧が移り住んだ集落が峠にあるので付いた名前だそうで、何とも安直なネーミングだ。「歩くマガジン関西版2001年秋冬号」によると「ごそとうげ」と書いてある。読みがそのとおりなら元はどういう意味なのか?現時点ではわからない。

ツツロ坂峠から簡易舗装の林道を下っていくと2年前と全然変わらないダート林道が現れた。工事中の五僧時山林道だ。廃村五僧までできているのは確認しているが、今年はどこまでできているのだろう?
2年前にぬかるみ道だった林道もガードレールなどの整備はされていて、当時ぬかるみを嫌って逃避した谷の北側にある旧道も健在だった。

林道は峠で終点になっていた。我々は島津越えの歴史案内が書いてある峠の表示板の前で記念撮影をし、幾星霜の歴史の彼方を振り返っていた。峠付近の廃屋も古びてはおらず、ひとけがないのが不思議なくらいであった(13:45、標高500m、31.5km)。
峠から岐阜県側を見ると、これまた2年前と変わらぬ良さげなシングルトラックが杉林の中に下りて行っている。見た目「乗れそうだね」ってことで出発することに。手負いの私は最後尾からゆっくり行くことにした。

しかし良かったのは始めの数十mだけ。基本的には単なる谷底であった。道も雨水に流されて消滅したポイントが多く、ここはおそらくスィッチバックだったのだろうなどと頭の中でシミュレーションして下りたり、谷川の向こうへ渡ってみたりというロールプレイングの連続だった。
標高差にして100mほど下りたところで西からの谷と合流した。待っていてくれた皆が言うには「道筋には赤いテープが付けられてた」そうなんだが、私はこの合流点でしか気が付かなかった。
合流点からは大きな谷川(牧田川)の左岸(北)を下っていく。谷川沿いの道なので所々洪水でえぐり取られて段差ができている。何度か杣道のような木橋を渡った。
対岸に炭焼き小屋のある所(毘沙門谷との合流点)でダブルトラックの道に出た。同行のみんなが待っていてくれた。

しかし、この峠道は事前に調べたウェブサイトでも感じたように下りに使ったのは大正解だった。登りだったらあの合流点へ行くまでに戦意喪失したかもしれない。
ダブルトラックを下りだしてすぐに工事中の林道と合流した。どこまでできているのだろう?旧道と同じように谷の左岸(北)にできている。このまま行けば山肌を縫いながら五僧の集落の北方から峠に到達するような気がする。
       林道との合流点
林道との合流点から間もなく道は舗装に変わり、時山の集落に入った(14:40、標高260m、35km)。三重県の藤原以来久しぶりの人里で、自販機もある。公民館?の横には島津越えの看板もあって、我々も越えてきたのだなあという実感が湧いてきた。自販機休憩の後、道を下り、下山の集落で国道306号線に出られた